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東北の歌枕の地を訪ねて
(陸奥は山城・大和に次ぎ、三番目の「歌枕の国」)
白河の関(しらかわのせき)
・場所:白河市旗宿字関の森 Yahoo!地図
 
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
・説明:1644−1694年 51歳 三重県伊賀市出身 本名:松尾宗房(むねふさ) 
    江戸時代前期の日本史上最高の俳諧師の一人
白河神社社務所前
        関守の   宿を水鶏に   問はふもの
        せきもりの やどをくいなに とはふもの
 句意:関守の宿を水鶏にとはふものは、「古関の在りかを、白河の風雅の関守であるあなたが知っているなら、白河を通ったとき、あなたの家を、戸を叩くように鳴く水鶏(くいな)に尋ねてお訪ねしましたのに


 


古歌碑

平 兼盛(たいらの かねもり)
・説明:?−990年 平安時代中期の歌人 光孝天皇曾孫の篤行の子 三十六歌仙の一人
 拾遺集
 便りあらば  いかで都へ   告げやらむ 今日白河の   関は越えぬと 
 たよりあらば いかでみやこへ つげやらむ けふしらかわの せきはこえぬと
 歌意:つてがあったなら、どうにかして都の人たちに告げたいものだ。今日あの名高い白河の関を越えたと

能因 法師(のういん ほうし)
・説明:988−? 平安時代の歌人 26歳の時出家し、摂津国に住む。奥州・伊予・美作などを旅した
 俗名:橘永ト
(ながやす)。法名は初め融因、のち能因に改称
後拾遺集
 都をば   霞とともに   立ちしかど 秋風ぞ吹く   白河の関
 みやこをば かすみとともに たちしかど あきかぜぞふく しらかわのせき
 歌意:春霞が立つのとともに都を発って来たけれど、白河の関ではもう秋風が吹いている

梶原 影季(かじわら かげすえ)
・説明:平安時代末期から鎌倉時代初期の武将
後拾遺集
 秋風に   草木の露を   はらわせて 君がこゆれば  関守もなし  
 あきかぜに くさきのつゆを はらわせて きみがこゆれば せきもりもなし
 歌意:

 1889年(明治22年) 古関村初代村長菊池甚四郎 建立
2012.12.7


2012.12.7




「奥の細道白川の関」碑
河合 曽良(かわい そら)
・説明:1649−1710年 長野県諏訪市生まれ 俳諧師 芭蕉の奥の細道に同行した弟子
    蕉門十哲
 心許なき日かず重るまゝに白川の関にかゝりて旅心定りぬいかで都へと便求しも断也
 中にも此関は三関の一にして風騒の人心をとゞむ秋風を耳に残し紅葉を俤にして青葉の梢、
 猶あはれ也、卯の花の白妙に茨の花の咲そひて雪にもこゆる心地ぞする
        卯の花を  かざしに関の  晴着かな
        うのはなを かざしにせきの はれぎかな 
 句意:白河関を通過するときは、、衣装を改めたというが、私にはこのような用意もないので、せめて卯の花を髪にかざして関を通ることにしよう
 1968年(昭和43年) 白河青年会議所 建立 加藤楸邨書
2012.12.7




後鳥羽 院(ごとばのいん)/後鳥羽 天皇(ごとばてんのう) 
・説明:1180−1239年 平安時代末期〜鎌倉時代初期の天皇 82代1183−1198年
    高倉天皇の第四皇子として生まれる。
 
 雪にしく  袖に夢路も   たえぬへし また白川の   関の嵐に
 ゆきにしく そでにゆめじも たえぬへし またしらかわの せきのあらしに
 歌意:
 1912年(明治45年) 地元の盲目の文人・鈴木八郎 建立
 鈴木 八郎(すずき はちろう)
・説明:地元の盲目の文人
    
碑を囲む石柵の一本に八郎の歌が小さく刻まれている。 
 よろこばし 神いますらん  白川の   清き流れの   あらんかぎりは
 よろこばし かみいますらん しらかわの きよきながれの あらんかぎりは
 歌意:


 

 證空上人 新千載和歌集
・説明:1177−1247年 62代村上天皇の子孫鎌倉時代の僧、西山浄土宗の祖で著名な歌人
 光台に   見しはみしかは みざりしを ききてぞ見つる 白河の関
 こうだいに みしはみしかは みざりしを ききてぞみつる しらかわのせき
 歌意:陸奥国白河を通ったとき「兼ねて名を聞いていた白河の関とはどの辺だろうか」とね、従っていた蓮生法師は「先ほど過ぎた所が関の跡です」と答えた。證空上人は話に聞くだけで見られなかった白河の関を光台(阿弥陀仏の説く極楽浄土)に例えて上記の和歌を詠んだ、と伝わる。上人が通った時代は1240年よりも前と考えられるので、この頃には既に関としての機能を失い草に埋もれていたのだろう
 1979年(昭和54年) 西山浄土宗総本山光明寺 建立
2012.12.7


 


川柳碑
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう)
・説明:1870−1934年 山口県生まれ 川柳作家 
 地元の新聞記者を経て東京の日本新聞社に入社後、堕落していた狂歌を排除して新川柳運動を提唱し、近代川柳の基礎を作った。
          関所から   京へ昔の     三千里
          せきしょから きょうへむかしの さんぜんり
 句意:
大谷 五花村(おおたに ごかそん)
・説明:明治24年、福島県五箇村(現白河市借宿)に生まれる。
 井上剣花坊に川柳を学び、剣花坊の「大正川柳」同人。吉川英治とは深い親交があった。
 五箇村長・白河町長・貴族院議員を勤める。昭和33年没
         白河を   名どころにして 関の跡
         しらかわを などころにして せきのあと
 1931年(昭和6年) 白河川柳能因会 建立
 2012.12.7




白河関の森公園
・場所:白河市旗宿白河内7−2 Yahoo!地図
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
・説明:1644−1694年 51歳 三重県伊賀市出身 本名:松尾宗房(むねふさ) 
        風流の    初やおくの  田植うた
        ふうりゅうの はつやおくの たうえうた
 句意:白河の関を越えると田植え歌が聞こえてきた。これがみちのくの旅の風流の初めなのだなあ 
 1989年(平成元年) おくの細道300年を記念して星雲社 建立 

 
 
白河関の森公園
・場所:白河市旗宿白河内7−2 Yahoo!地図
河合 曾良(かわい そら)
・説明:1649−1710年 長野県諏訪市生まれ 俳諧師 芭蕉の奥の細道に同行した弟子
    蕉門十哲
         卯の花を  かざしに関の  晴着かな
         うのはなを かざしにせきの はれぎかな
 句意:白河の関を通過するときは衣装を改めたというが、私にはこのような用意もないので、せめて卯の花を髪にかざして関を通ることにしよう
2012.12.7


2012.12.7


2012.12.7




白河の関を詠んだ句 
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
・説明:1689年(元禄2年)6月7日白河関を訪れた。俳友の何云宛書簡(上)に書かれた句
        西か東か    先早苗にも   風の音
        にしかひがしか まずさなえにも かぜのおと
 句意:生まれて初めての奥羽に足を踏み入れたのだから、土地感がなく西も東も分からない。しかし、昔、能因法師が詠んだ歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」であってみれば、いま季節は初夏とはいえ早苗の上を通りすぎる風はあの風だ。
詠んだ時期・場所:1689年「奥の細道」白河の関



白河の関を詠んだ歌
西行 法師(さいぎょうほうし)
・説明:1118−1190年和歌山県那賀郡打田町に生まれ 
 本名:佐藤義清(のりきよ)生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人
 宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
 関に入りて、信夫と申辺、あらぬ世の事におぼえて哀れなり。都出でし日数思ひ続けられて、「霞と共に」と侍ることの跡辿(たど)り詣(もう)で来にける心一つに思知られて詠みける
 白河の   関屋を月の   洩る影は  人の心を    留むる成けり
 しらかわの せきやをつきの もるかげは ひとのこころを とむるなりけり
 歌意:
 
 都いで   逢坂越へし   おりまでは 心かすめし   白河の関
 みやこいで おうさかこえし おりまでは こころかすめし しらかわのせき
 歌意: 
 白河の   関路の桜 咲きにけり 東より来る 人の稀なる  
 しらかわの せきじのさくら さききにけり あづまよりくる ひとのの稀なる  
 歌意: 
 思はすは 信夫の奥へ  来ましやは 越え難かりし  白河の関 
 おもはは しのぶのおく きましやは こえむずかりし しらかわのせき
 歌意: 
 雪にしく  袖に夢路も   絶へぬべし また白河の   関の嵐に
 ゆきにしく そでにゆめじも たへぬべし またしらかわの せきの嵐に
 歌意:


白河の関を詠んだ歌
藤原 季通(ふじわら の すえみち)
・説明:?−?年 平安時代末期の廷臣、歌人
 見る人の  たちしとまれば 卯の花の  さける垣根や  白河の関
 みるひとの たちしとまれば うのはなの さけるかきねや しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌
源 頼政(みなもとの よりまさ)
・説明:1104−1180年 平安時代末期の武将・公卿・歌人
千栽集
 都には   まだ青葉にて  見しかども 紅葉ちりしく  白河の関
 みやこには まだあおばにて みしかども もみじちりしく しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
僧都 印性(そうず いんせい)
・説明: 
千載集
 東路も   年も末にや   成りぬらむ 雪ふりにける  白川の関 
 あつまじも としもすゑにや なりぬらむ ゆきふりにけり しらかはのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
藤原 家隆(ふじわらの いえたか)
・説明:1158−1237年 鎌倉時代初期の公卿、歌人
   「かりゅう」とも呼ばれる。 初名:顕隆。法名は仏性、壬生二位
 
 消ぬが上に   降りしけみ雪  白河の   関のこなたに  春もこそたて
 きえぬがうえに ふりしけみゆき しらかわの せきのこなたに はるもこそたて
 歌意:消えない上に更に降り続けてほしい  
 
 白川の   関のしろ地の  からにしき 月にふきしく  夜半のこからし
 しらかわの せきのしろじの からにしき つきにふきしく やはんのこからし
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
一遍 上人(いっぺん しょうにん)
・説明:1239−1289年 鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖 円照大師 
 行く人を 弥陀の誓ひに 漏らさじと 名をこそとむれ 白河の関
 ゆくひとを みだのちかいに もらさじと なをこそとむれ しらかわのせき
 歌意:
 西行の有名な歌をさりげなく否定する一遍の心が見える。人を留めるのではない、名号を留めるのだ、と詠む一遍


白河の関を詠んだ歌 
民部卿 長家(みんぶきょう ながいえ)
・説明:1005−1064年 平安時代中期の公卿・歌人
 あづまぢの 人にとはばや  白川の   関にもかくや  はなはにほふと
 あづまぢの ひとにとはばや しらかわの せきにもかくや はなはにほふと
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
藤原 道綱 母(ふじわらの みちづなの はは)
・説明::936−995年 平安時代中期の女性歌人 藤原道綱の生母
    日本で最も美しい女性三人のうちの一人とも言われている。
 
 白河の   関のせけばや  こまうくて あまたの日をば ひきわたりつる
 しらかわの せきのせけばや こまうくて あまたのひをば ひきわたりつる
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
平 親宗(たいらの ちかむね)
/左大弁 親宗(さだいべん ちかむね)
・説明:1144−1199年 平安時代末期の公卿 
 紅葉ばの  みなくれなゐに ちりしけば 名のみなりけり 白川の関
 ものじばの みなくれなゐに ちりしけば なのみなりけり しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
恵慶(えぎょう)/恵慶 法師(えぎょう ほうし)
・説明:生没年不明 平安時代中期の日本の僧、歌人 中古三十六歌仙の一人
    播磨国(兵庫県)の国分寺の僧だったと言われる

 みちのくの 白川はこえて   わすれにし ひつしさるさる ゆけとはるけし
 みちのくの しらかわはこえて わすれにし ひつしさるさる ゆけとはるけし
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
藤原 為家(ふじわらの ためいえ)
・説明:1198−1275年 鎌倉時代中期の公家・歌人。
    藤原定家の二男、別称:中院禅師・冷泉禅門・民部卿入道
 ふりぬれと 名こそしるけれ 白川の   関屋に花の   色をとゝめて
 ふりぬれと なこそしるけれ しらかわの せきやにはなの いろをととめて
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
大中臣 能宣(おおなかとみの よしのぶ)
・説明:921−991年 平安時代中期の貴族・歌人 大中臣頼基の子 三十六歌仙の一人
 ふりはへて なにゝかきみか さらにゆく こゝそやこそ 白川の関 
 ふりはへて なにゝかきみか さらにゆく こゝそやこそ しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
藤原 実方(ふじわらの さねかた)
・説明:?−999年 平安時代中期の貴族・歌人 中古三十六歌仙の一人
 いかてかは 人のかよはん  かくはかり 水ももらさぬ  白川の関
 いかてかは ひとのかよはん かくはかり みずももらさぬ しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
源 重之(みなもとの しげゆき)
・説明:生没年未詳 平安時代中期の官人、歌人  源兼信の子  三十六歌仙の一人
    陸奥守藤原実方に随行し、陸奥で没した
 
 白川の関    よりうちはの とけくて いまはこかたの いそかるゝかな
 しらかわのせき よりうちはの とけくて いまはこかたの いそかるるかな
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
源 実朝(みなもとの さねとも)
・説明:1192−1219年 鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍
    征夷大将軍源頼朝の二男。母は北条政子
 
 金塊和歌集 435
 東路や   みちの奥くなる 白川の   関あへぬ袖を   もる泪かな
 あづまじや みちのおくなる しらかわの せきあへぬそでを もるなみだかな
 歌意:


白河の関を詠んだ歌
藤原 定家(ふじわらの さだいえ(ていか))
・説明:1162−1241年 鎌倉時代初期の公家・歌人 藤原俊成の子
 「ていか」と音読みされることが多い。
 白河の   関の関守    いさむとも しぐるる秋の  色はとまらじ
 しらかわの せきのせきもり いさむとも しぐるるあきの いろはとまらじ
 歌意: 
 くるとあくと 人を心に    をくらさて 雪にもなりぬ  白河の関
 くるとあくと ひとをこころに をくらさて ゆきにもなりぬ しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
藤原 定頼(ふじわらの さだより)/権大納言
・説明:995−1045年 平安時代中期の公家 歌人 権大納言 藤原公任の長男
    中古三十六歌仙の一人
かりそめのわかれとおもへど白川の関とどめぬはなみだなりけり
かりそめのわかれとおもへど しらかはのせき とどめぬはなみだなりけり 
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
宗久(そうきゅう)
・説明:生没年未詳 南北朝時代の僧 歌人 
 「都のつと」の作者 九州から東北地方まで仏道修行を目的とした漂泊の旅を遂行した
 都にも   今や吹くらむ  秋風の   身にしみわたる 白川の関
 みやこにも いまやふくらむ あきかぜの みにしみわたる しらかわのせき
 歌意:


白河の関を詠んだ歌 
橘 為仲(たちばなの ためなか)
・説明:1014−1085年 平安時代後期の公家・歌人
    陸奥守などの地方官を歴任。受領歌人の一人
 
 人づてに  聞きわたりしを 年ふりて  けふ行き過ぎぬ 白河の関
 ひとづてに ききわたりしを としふりて けふいきすぎぬ しらかわのせき
 歌意:
 
 もみちはの かゝるおりには 白川の関    は名をこそ かふへかりけれ
 もみちはの かゝるおりには しらかわのせき はなをこそ かふへかりけれ
 歌意: 


白河の関を詠んだ歌 
和泉式部(いずみ しきぶ)
・説明:974・976−生没年不詳 父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女 中古三十六歌仙の一人 女房三十六歌仙の一人 王朝時代随一の女流歌人
ゆく春のとめまほしきに白川の関をたえぬる身ともなる哉 
 ゆく春のとめまほしきに しらかわのせき をたえぬる身ともなる哉 
 歌意:


関所案内の碑
・説明:




 

古関蹟(こかんせき)の碑
・説明:松平定信が建立
 2012.12.7