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東北の歌枕の地を訪ねて
(陸奥は山城・大和に次ぎ、三番目の「歌枕の多い国」)
末の松山(すえのまつやま)
・場所:宮城県多賀城市八幡2丁目 宝国寺  Yahoo!地図
・樹齢:480年、高さ19m
・説明:多賀城に赴いた中央官人らによって都に伝播され、陸奥を代表する一流の歌枕として慕われ続けた。恋愛模様を象徴する歌枕です。

 平安初期は「
が越えない末の松山」を愛情の変わらぬさまに、後期には「超えてしまうとは」と破たんの表現に使われます。3.11でも波は越えませんでした。
 今も松が高くそびえ、昔日の名残りをとどめています。
・指定等:多賀城市指定文化財
 二本の黒松



清原 元輔(きよはらの もとすけ)
・説明:908−990年 平安時代の官人・歌人 娘に清少納言がいる 三十六歌仙の一人
後拾遺和歌集
 契りきな  かた身に袖を  しぼりつつ 末の松山    越さじとは
 ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつやま なみこさじとは
 歌意:約束したのにね、お互いに涙にぬれるそでをしぼりながら。末の松山を決して波が越すことなんてあり得ないように、二人の愛はかわらないのだと。
 契り:恋の約束。かたみに:お互いに。袖をしぼりつつ:泣き濡れる
 東日本大震災では津波がどうだったんでしょうか。

     大丈夫でした。沖の石までだったようです。
 1957年(昭和32年) 江口進建立



 


詠み人知らず
古今和歌集 巻20 1093 東歌(あずまうた)
 君をおきて  あだし心を   我がもたば 末の松山    もこえなむ
 きみをおきて あだしこころを わがもたば すえのまつやま なみもこえなむ
 歌意:あなたを差しおいて、他の人に心を移すようなことがもしあったとしたら
    浪が超えるはずがないといわれている末の松山をさえ、浪が超すことでしょう。
  あだし心:浮気心
  多賀城市建立


 


宗久 法師(そうきゅう 法師)
・説明:生没年未詳 南北朝時代の僧 歌人 
 夕日さす  末の松山    霧晴れて  秋風通ふ    波の上かな
 ゆうひさす すえのまつやま きりはれて あきかぜかよう なみのうえかな
 
 歌意:
 国府多賀城に到着、末の松山を訪ね、松原越しにはるばる見渡すと、本当に波が越すように見え、釣舟も梢を渡っているように見えました。

 
 
藤原 興風(ふじわらの おきかぜ)
・説明:生没年不詳  平安時代の官人・歌人 三十六歌仙の一人 別名:江帥
古今和歌集
 浦ちかく  ふりくる雪は  しらの  末の松山    こすかとぞ見る
 うらちかく ふりくるゆきは しらなみの すえのおくやま こすかとぞみる
 歌意:入り江のあたり近くふってくる雪は、あの東歌に言う、白波が末の松山を越えているのかと思うほどに見える。

 
藤原 家隆(ふじわらの いえたか)(かりゅう)
・説明:1158−1237年 鎌倉時代初期の公卿、歌人
   「かりゅう」とも呼ばれる。 初名:顕隆。法名は仏性、壬生二位
新古今若歌集 37
 霞たつ   末の松山    ほのぼのと にはなるる  横雲の空
 かすみたつ すえのまつやま ほのぼのと なみにはなるる よこぐものそら
 句意:
 横雲:多く明け方に東の空にたなびく雲をいう


 大江 匡房(おおえの まさふさ)/大蔵卿匡房
・説明:1041−1111年 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭
金葉和歌集
 いかにせん すゑの松山   なみこさば みねのはつゆき きえもこそすれ
 いかにせん すえのまつやま なみこさば みねのはつゆき きえもこそすれ
 歌意:

 

藤原 定家(ふじわらの さだいえ(ていか))
・説明:1162−1241年 鎌倉時代初期の公家・歌人 藤原俊成の子
 「ていか」と音読みされることが多い。
 新古今和歌集
 まつ山と  契りし人は   つれなくて 袖越すに   残る月影
 まつやまと ちぎりしひとは つれなくて そでこすなみに のこるつきかげ
 歌意:

藤原 定家(ふじわらの さだいえ(ていか))
 拾遺愚集
 思ひ出でよ  末の松山    末までも  越さじとは  契らざりけり 
 おもひいでよ すえのまつやま すえまでも なみこさじとは ちぎらざりけり
 歌意:

 

能因 法師(のういん ほうし)
・説明:988−?年 平安時代の歌人 26歳の時出家し、摂津国に住む。奥州・伊予・美作などを旅した。 俗名:橘永ト(たちばなのながやす)。法名は初め融因、のち能因に改称
能因集
 白の   越すかとのみそ 聞こえける 末の松山    松風の声
 しらなみの こすかとのみそ きこえける すえのまつやま まつかぜのこえ
 歌意:


西行 法師(さいぎょう ほうし)
・説明:1118−1190年 和歌山県那賀郡打田町生まれ 
   本名:佐藤義清(のりきよ)生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人
 宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
・訪れた日:
 頼めおき  しそのいひ事や  あだなりし こえぬべき  末の松山
 たのめおき しそのいひことや あだなりし なみこえぬべき すえのまつやま
 歌意:

西行 法師(さいぎょう ほうし)
 春なれば  ところどころは 緑にて   雪の越す    末の松山
 はるなれば ところどころは みどりにて ゆきのなみこすす すえのまつやま
 句意:

 
橘 為仲(たちばなの ためなか)
・説明:1014−1085年 平安時代後期の公家・歌人
    陸奥守などの地方官を歴任。受領歌人の一人
新古今和歌集
 白の   越ゆらん  末の松山は   花とはみゆる  春の夜の月
 しらなみの こえゆらん すえのまつやま はなとはみゆる はるのよのつき
 歌意:

 
後鳥羽 院(ごとばの いん)/後鳥羽 天皇(ごとば てんのう)
・説明:1180−1239年 平安時代末期〜鎌倉時代初期の天皇
    高倉天皇の第四皇子として生まれる。
後鳥羽院御集
 見わたせば こす山の   すゑの松木  すゑにやとる 冬の夜の月
 みわたせば なみこすやまの すえのまつき すゑにやとる ふゆのよのつき
 歌意:

 
藤原俊成(ふじわらの としなり) 
・説明:1114−1204年 平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人
 うかりける 昔の末の    松山は  越せとやは  思ひおきけむ
 うかりける むかしのすえの まつやま なみこせとやは おもひおきけむ
 歌意:

  
大江 匡房(おおえの まさふさ)/大蔵卿匡房
・説明:1041−1111年 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭
金葉和歌集
 いかにせん 末の松山    越さば  みねの初雪   消えもこそすれ
 いかにせん すえのまつやま なみこさば みねのはつゆき きえもこそすれ
 句意:

 
道興 准后(どうこう じゅごう)
・説明:1430−1527年 室町時代の僧侶  巡歴の高僧
 1487年末の松山を眺めて詠んだ
 1487年武蔵国から甲斐国を廻り、奥州まで至っている。道興は後に東国廻国を紀行文「廻国雑記」として著した。
 人なみに  思ひ立ちにし  かひあれや わかあらましの 末の松山
 ひとなみに おもひたちにし かひあれや わかあらましの すえのまつやま
 歌意:


内山 逸峰(うちやま いっぽう)
・説明:1701−1780年 富山市宮尾生まれ 豪農1千石地主の7代当主
・訪れた日:1764年 末の松山を訪れて詠んだ
 
 越ぬべき  こそ見えね  末の松山    かぜばかりを とにまがひて
 こえぬべき なみこそみえね すえのまつやま かぜばかりを とにまがひて
 歌意:

 

和知 風光(わち ふうこう)
・説明:1701−1755年 55歳没 白河の俳人 別名:夕顔庵、巽々坊
・訪れた日:1751年 末の松山を訪れて詠んだ
        世そすへの まつ山かけて  北時雨
        よそすへの まつやまかけて きたしぐれ
 句意:


 
 
加藤 暁台(かとう きょうたい)
・説明:1732−1792年 江戸中期の俳人。名は周挙。通称は平兵衛。別号,他朗,暮雨巷など
・訪れた日:1770年 末の松山を訪れて詠んだ
         恋のみや  は無常の    ちり
         こいのみや すえはむじょうの ちりまつば
 句意:

 
諸九尼(しょきゅうに)
・説明:1714−1781年 江戸時代の女俳諧師。庄屋の妻であったが、旅の俳諧師(有井新之助/有井湖白)と駆落ちし、俳諧の道に進む
 旅をよくして、奥の細道を辿り旅行し「秋かぜの記」を書いた。別号は波女(浪女)、雎鳩、湖白庵、千鳥庵後婦、蘇天
・訪れた日:1771年 末の松山を訪れて詠んだ
       松やまや  今越るのは   鳫の声
       まつやまや いまこえるのは がんのこえ
 句意:

 
加舎 白雄(かや しらお)
・説明:1738−1791年 江戸中期の俳人 与謝蕪村などと共に中興五傑の一人
・訪れた日:1773年 末の松山を訪れて詠んだ
        松やしる  旅ゆくすゑの  秋しぐれ
        まつやしる たびゆくすゑの あきしぐれ
 句意:

 
 
・説明:
  
 君か代と  すえの松山   ほのほのと こす志ら浪の  かずもしられん
 きみかよと すえのまつやま ほのほのと こすしらなみの かずもしられん 
 句意:


 1893年(明治26年)7月30日、正岡子規は近くを通ったが、立ち寄らなかった。「末の松山も同じ擬名所にて横道なれば入らず。」
 1689年ここを訪れた芭蕉は、「はねをかはし枝をつらぬる契りの末も終わりはかくのごとしと悲しさも増さりて」と無常観を感じたことをおくのほそ道にかいている。