宮城県の碑 |
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宮千代の碑・戸津利源大藤原高広の碑 |
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・場所:宮城県宮城野区宮千代1 宮千代児童公園 YAHoo地図 | |
宮千代の碑 |
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・説明:松島寺(現瑞巌寺)に宮千代といふ美少年がいた。 宮千代は和歌修行の為都に上る途中、宮城野の美しさに魅せられて「月は露露は草葉に宿かりて 」と詠んだが下の句が続かず苦しみながら亡くなった。村民は松を植え塚を築いて弔ったが、夜になると宮千代の霊が「月は露・・・・」と吟じて、通る人をこわがらせた。 このことを知った松島寺の徹翁は、下の句「それこそそれよ宮城野の原」と続けた。 それから地下から声がきこえなくなったという。 |
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2013.1.20 撮影![]() |
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宮千代塚 |
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・説明:昔、松島寺(瑞巌寺)の高僧・見佛上人に仕えた宮千代といふ、才色勝れた稚児があった。幼い頃から秀才の誉れ高く、歌をよくし、折々は京都に歌を上せて、大宮人の賞賛するところとなっていた。 宮千代は、かねがね京に上って、歌の修行をしたいと念願していたが、遂に上洛を企て松島をぬけて、宮城野原にさしかかった。 折りからの月明りに一面の草原は露の玉が宝石のようにきらめいて詩情を誘った。 宮千代は思わず「月は露つゆは草葉に宿かりて」と詠んだが、どうしても下の句がつづかない。 苦吟を重ねるうち、病にかかり、里人に引き取られたが、看護の甲斐もなく空しく悶死してしまった。 里人は哀れに思ひ懇ろに葬むり塚を築いてやったが、その亡霊が夜な夜なあらわれ、「月は露つゆは草葉に宿かりて」と口ずさんだ。このうわさを聞いた見佛上人がある夜、宮城野原へ来て、塚のほとりを通ると果たして月は露という声がしたので「それこそそれよ宮城野の原」と下の句を手向けてやったところ亡霊も出なくなり歌の声も止んだと伝えられている。 |
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2013.1.20 撮影![]() 2013.1.20 撮影 ![]() |
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戸津利源大藤原高広の碑 |
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・説明:戸津家は、代々馬術をもって伊達家に仕え、屋敷は、北三番丁新坂通西北角にあり、土地を南目村原町に持っていた。 天明4年(1784年)は「餓死の年」といわれ、飢饉のために仙台藩領は荒廃し、南目村の新屋敷も同じであった。このことを憂いた利源太は、文化7年(1810年)新屋敷地域の再開発に力を入れ実現した。 その功績をたたえて新屋敷の21名の人々によって嘉永6年(1863年)に碑が建てられた。 |
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2013.1.20 撮影![]() 2013.1.20 撮影 ![]() |