多目的ホール「あぷる」
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・場所:青森県北津軽郡板柳町大字灰沼字岩井61 あぷる Yahoo地図
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与謝野寛・晶子合同歌碑
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与謝野 寛(よさの ひろし) |
・説明:1873−1835年 本名:寛 京都生まれ
山口県周南市の徳山女学校で国語の教師を4年間勤めるも、女子生徒(浅田信子)との間に問題を起こし、退職。このとき女の子が生まれたが、その子は間もなく死亡。次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうた。1892年徳山女学校を退職 上京し落合直文の門人に
短歌の革新を唱え、明治27(1894)年に歌論「亡国の音」を発表。明治32(1899)年に「新詩社」を設立し、翌年にはその機関誌である「明星」を創刊し、日本浪漫主義運動を主導しながら北坂白秋や石川啄木などの逸材を世に送り出しました。 |
神さびて あおげば高き 住吉の 松にむかしを たれにとわまし
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歌意: |
1991年(平成3年)建立
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与謝野 晶子(よさの あきこ)
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・説明:1878−1942年 本名:晶 大阪堺甲斐町の和菓子商の娘として生まれ、
十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)鉄幹が「明星」を創刊すると同誌で歌を発表した。8月に初めて鉄幹と会い恋心が爆発、翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集「みだれ髪」を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。
晶子23歳、鉄幹28歳。女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた「みだれ髪」は一大センセーションを巻き起こした。近代日本を代表する歌人として活躍 |
つがる獅子 わがためまいぬ 夕月夜 りんごの畑を いでてきつれば
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