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吉田 松陰(よしだ しょういん)
・説明:1830―1859年 享年30 長州藩士 思想家、教育者、兵学者、地域研究家
 1830年:長州藩士 杉百合之助の次男として山口県萩市椿東椎原に生まれる
 1834年:父の弟である吉田大助に養子
 1835年:吉田大助死亡 吉田家を嗣ぐ
 1840年:明倫館の兵学教授
 1850年:九州の平戸へ遊学
 1851年:江戸へ出て佐久間象山に学ぶ
 1851年:宮部鼎蔵(みやべていぞう)と共に東北地方遊学(脱藩)
 1853年:外国留学の意志を固め、金子重之輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に
       乗り込もうとするが、出港して船はなく失敗
 1854年:伊豆下田港で、ペリー艦隊に金子重之輔と二人で赴き、密航を訴えるが拒否
       幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
 1857年:叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾(そうかそんじゅく)を引き受ける。
       久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠
       品川弥二郎、山田顕義などを教育し、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
 1859年:老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑

酒田市/日和山公園
・場所:山形県酒田市南新町一丁目 日和山公園 Yahoo!地図  
吉田 松陰(よしだ しょういん)
海辺に出て 平砂の中を行く 最上川に至る 中間に 浜中駅あり  
舟川を済る 濶さ六町余り 川を越ゆれば 即ち 酒田なり 戸数五千
或は云ふ 今は増して七千に至ると 川は大船を泊すべし      
新潟以北 最も繁盛の地なり 海を離れていく 峻領雪を含み    
卓然として 前に当るは 鳥海山と為す 又 川を済ること     
二次 皆 源をこの山に発す 吹浦に宿る 行程十二里       
この地の米価は苞 二貫八九百銭なり 苞は五斗を容る
       
                
吉田松陰 東北遊日記より
 詩意:
 年 建立
 1852年(嘉永5年)2月21日 23歳の時に東北地に遊学に出た時の文
2013.9.19


2013.9.19