HOME

宮城県の句碑
名取市
 
藤原実方朝臣(実方中将)
・場所:名取市愛島笠島字塩手 川内沢橋にさしかかる道の西側 Yahoo!地図 
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
・説明:1644−1694年 51歳 三重県伊賀市出身 本名:松尾宗房(まつおむねふさ)
    江戸時代前期の日本史上最高の俳諧師の一人
 
      笠島は   いづこ皐月乃  ぬかり道
      かさじまは いづこさつきの ぬかりみち
句意:実方の墓や、西行のゆかりのすすきのある笠島はどの辺りなのだろうか、五月の雨でぬかるんだ道なので尋ねることもできない本当に残念だ。
詠んだ時期・場所:1689年(元禄2年) 名取市
 1989年(平成元年) 名取市長 石川次夫 建立
2004.4.30 撮影


歌碑の右側に建っている「碑文 芭蕉紀行 奥の細道碑」


 元禄二年(1689年)漂泊の俳人松尾芭蕉は門人曽良とともにみちのくへ旅し、悲運の歌人藤原中将実方朝臣の塚を訪れようと名取の郡に入る。折り悪しく日没と五月雨の悪路に阻まれ目的を果たせぬままこの地に無念の一句を残し通り過ぎる。時過ぎて三百年、ここに芭蕉翁の句を記すとともに、追慕の思いを込めてこの碑を建立する。
 1989年(平成元年) 名取市長 石川次夫


 


「かたみのすすき」   
           「霜枯れのすすき」草鞋塚(わらじづか)の碑 
 「一叢(ひとむら)の薄」  
・場所:名取市愛島笠島字塩手 川内沢橋にさしかかる道の西側 Yahoo!地図
 松洞 馬年(しょうとう ばねん)
・説明:  −1839年 仙台藩士で石原泰輔(助)といい、俳人かつ、茶道・挟花を好み、庭には百株の松を植え、自ら松洞と号する風流人であった。
 門人に松洞宗古
        笠島は   あすの草鞋の  ぬき処
        かさじまは あすのぞうりの ぬきどころ
 句意
 年 建立
2004.4.30


かたみのすすき・一叢(ひとむら)の薄 2014.9.23 撮影


2014.11.23 やっとすすきを撮影普通のすすきより穂が小さい
 

2014.11.23 やっとすすきを撮影普通のすすきより穂が小さい


2017.11.2




藤原実方(ふじわらの さねかた)朝臣(実方中将)墓前/かたみのすすき 
・場所:名取市愛島塩手字北野42 Yahoo!地図 
西行 法師(さいぎょう ほうし) 
・説明:1118−1190年 和歌山県那賀郡打田町生まれ 
    本名:佐藤義清(のりきよ)生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。
 宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
 西行は1186年(文治2年)実方の墓を訪れて、実方の形見とて薄の穂波だけとなっている姿に涙して追悼の一首を詠んだ。
  
朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおきて 枯野の薄    形見にぞ見る
くちもせぬ そのなばかりを ととめおきて かれののすすき かたみにぞみる
 歌意:
 平安中期の歌人「藤原実方」は、左遷で陸奥守として、みちのく多賀城に赴任してきた。名取市笠島の道祖神・神社の前を下馬せずに通り過ぎたら落馬してしまい、これが原因で死亡、そののち、西行がこの地を訪ね弔いの歌を歌った。
 1909年(明治42年) 荘司益吉 建立
2014.11.23


2004.4.30




藤原実方朝臣顕彰の歌碑 
・場所:名取市愛島塩手字北野42 Yahoo!地図
・説明:出羽国の阿古耶(あこや)の松を訪ねての帰り道、名取郡の笠島道祖神の前を騎馬で通過しようとして落馬し、その傷がもとで亡くなった、とする。
 
藤原 実方/読人知らず
・説明:?−999年 平安時代中期の貴族・歌人 中古三十六歌仙の一人
 995年陸奥国司(むつこくし)に任命 実方が馬に乗り笠島道祖神前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した
拾遺集 50
 桜狩り   雨はふりきぬ  おなじくは 濡るとも花の  陰に隠れむ
 さくらがり あめはふりきぬ おなじくは ぬるともはなの かげにかくれむ 
 歌意:花見の最中に雨が降ってきた。同じ濡れるなら花の陰で濡れよう
 1907年 建立
 愛島村有志が
実方朝臣没後910年祭を行った際のもの
  殿上で藤原実方が歌について藤原行成と喧嘩するもとになった歌を万葉仮名で刻んだ

 2004.4.30


2014.11.23


2004.4.30


       藤原実方(さねかた)朝臣(あそん)(実方中将)の墓
 藤原実方朝臣は中世三十大歌仙の一人で一條天皇につかえ、左近衛中将であったが藤原行成卿
(ごぜいきょう)(書道の大家、三蹟(さんせき)の一人)との争いがもとで長徳元年(995)陸奥守(むつのかみ)に左遷され、はるばるとみちのくに下った、長徳四年(998)冬笠島道祖神の前を乗り打ちして奇禍(きか)にあい、それがもとで、この地に薨(こう)じた、その命日は、里人によって「国司祭」とよばれたという。
 実方は、能因、西行にさきがけて、いわばみちのく歌枕散歩に先鞭
(せんべん)をつけた人というべきであろう。星移り年変って、西行がみちのくを訪れた時、野の中に立つ由緒ありげな塚をみて、これが実方の墓と知った彼は、折から霜枯れのすすきに心をよせ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」の一首を残した。
 実方、西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩情と遊心とをかきたてる憧憬
(しょうけい)の地であったにちがいなかったと思はれる、しかし芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。「笠島はいづこさ月のぬかり道」の一句は彼の万斛(ばんこく)の思いをこめた絶唱である。
 芭蕉の門人天野桃隣
(あまのとうりん)は先師の心をくんでか元禄九年(1696)はるばるとこの地に杖をひいたが、実方の墓はさらに風雪にあって様子をかえ「五輪(塔)折崩(おりくずれ)て名のみばかり」であったと、その荒廃ぶりを紀行文「陸奥鵆(むつちどり)」に書きとどめた。
 今はその五輪塔さえ失なわれ、わずかに墳丘をとどめるばかりで、墓の畔りには、西行の歌を刻んだ標石のほか、実方朝臣の「桜狩り」の歌碑があり、また西行の歌にゆかりのある一叢
(ひとむら)の薄(すすき)の中に松洞馬年(しょうとうばねん)の句碑がある。