伊東 七十郎 重孝(いとう しちじゅうろう しげたか)
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・説明:1633−1668年 桃生郡 出身 36歳没
伊達氏家臣・伊東理蔵重村の二男として仙台生まれ
儒学を仙台藩の内藤閑斎、京都で陽明学を熊沢蕃山、江戸で兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行に学ぶ。一方で深草で日蓮宗の僧・日政に国学を学び、文学にも通じていた。
伊達騒動で知られる寛文事件で仙台藩3代藩主綱宗が強制的に隠居させられ、その後藩の実権を握り、仙台藩を乗っ取ろうと計画したとされる伊達兵部宗勝を誅殺しようとして失敗し捕らえられた伊東七十郎重孝は、1668年(寛文8年)4月28日、仙台の米ヶ袋誓願寺河原にて斬首された。
1671年、涌谷の伊達宗重の訴訟により仙台藩をめぐる陰謀が明るみに出た。そして、宗勝や原田宗輔たち兵部一派が滅ぼされるに及び、重孝の忠が称えられ、仙台4代藩主伊達綱村は伊東家の再興を認めた。
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船岡城址公園
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・場所:宮城県柴田郡柴田町大字船岡字舘山(船岡城址公園) Yahoo!地図 |
伊東七十郎辞世の句碑
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人心これ危し 道心これ微なり
これ精これ一まことその中をとる
古語にいう身をば危すべし志をば奪うべからず
又云殺べくして恥しめべからず
又云内に省てやましからず是予が志なり
食を断って三十三日目に之を書なり
我が霊魂三年の内に滅すべし
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1974年(昭和49年) 東京都 野口徳三郎 建立
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2010.4.6

2010.4.6

2010.4.6

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愛宕神社
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・場所:宮城県仙台市太白区向山4-17-1 愛宕神社境内 神門の前 Yahoo!地図
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伊東七十郎重孝「招魂碑」
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・説明:伊達騒動で知られる寛文事件
1902年愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎重孝の遺骸が発見された。
遺骸は一族の菩提寺である裁松院に葬られたが、発見された場所に1907年の
二百四十回忌に招魂碑が建てられた。
後に碑は愛宕神社のこの地に移された。
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2012.12.6

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伊東七十郎重孝/米ヶ袋刑場跡地/縛地蔵尊
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・場所:宮城県仙台市青葉区米ヶ袋3−5 Yahoo!地図
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・説明:仙台藩のかつての士分以上の切腹・斬首の刑場
1666年(寛文6年)仙台藩の牢が、花壇から片平丁の現在の片平コミニテイセンターの地に移ると、刑場も評定河原から米ケ袋のこの場所に移された。
縛り地蔵尊は、刑場跡に建てられた。
※士分:江戸期の武士階級のうち正規の武士身分を持った者を指す。士格とも。一般に公的に苗字を名乗り帯刀することが許された。
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2013.1.2

2013.1.2

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裁松院(さいしょういん)
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・場所:宮城県仙台市若林区連坊1丁目3−18 裁松院 Yahoo!地図 |
伊東七十郎重孝の墓
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・説明:並んで父・重村と兄・重頼の墓もある
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2016.01.14

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重孝神社(しげたかじんじゃ)
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・場所:宮城県石巻市北村金堂二丁目 Yahoo地図
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・説明:霊が祀られている。
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京都でのエピソード
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京都で陽明学の師 熊沢蕃山が題を出して和歌を詠ぜしめた時、重孝は即座に
「心外無物」
ちちの花も 心の内に 咲くものを 知らで外ぞと 思ふはかなし
「知行合一」「行動を伴わない知識は未完成である」
写絵に 芳野の花は はかるとも 行かでにほいを 如何で知るべき
と詠んだ。この和歌を見た蕃山は、わが意を得たりと喜び、真に学士であると誉めたという。
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